川のあるような風景
まずそこにあるのは、赤・黒・青緑の3つの異なる色と形をもつプラスチック容器と、透明なホース、その中を水流に乗って運動する小さな鈴である。でも私には、小高い山と丘、その間をうねる川とボートの風景が見える。かと思えば、それらはゴミ箱やコンポスト(堆肥製造器)、産業用ホースという本来の姿を取り戻し、その光景は即時に殺風景へと転換される。均質な白壁とコンクリート床に包囲され、外界から隔離されたギャラリー空間で、水以外の自然素材が見当たらない光景は、通常イメージする風景の概念にはほど遠い。
ロンドンでの文化庁新進芸術家海外研修を経て、槙原泰介の帰国後初の個展では、彼がこれまで取り組んできた人間の認識と世界とのズレをテーマに、インスタレーションを一種の風景として提示する。2008年に資生堂ギャラリーで発表された《flooring》の、ひしめき合って林立するシンバル群は、背の高さと不穏な静寂によって鑑賞者を圧倒する一種の崇高な風景を創出した。それに比して、本展の《River》は規模も物量も展示空間に対して遠慮がちに映るが、だからこそ鑑賞者との率直な対面を望んでいる。
この川には源流も下流もなく、川幅は一定で、水が河口から大海へと流れ出ることも決してない。非日常/日常、美術作品/工業製品が交錯する風景は、どちらにも還元不可能なまま鑑賞者を惑わし、見方を失った私たちの意識はやがて、鈴と同化して風景の中を堂々巡りする。私たちは、眼前で展開する作品を観念的に自然な風景として補完・再生しようともがいている。だが、現実の風景は観念ですくい上げられない雑多な要素を常に孕みながら、そこに存在し続ける。槙原が前景化する風景の試みとは、日常的な風景に紛れ込んでいる人工物の機能や場所性をはぎ取り、眼ではなく観念で見ている私たちの習慣を逆手に取ることによって、“風景”の実体を人間の意思を超えた物理レベルで経験させようという企てである。
近藤亮介(美術批評家)
‘美術手帖 2013年3月号’