〈不穏の正体〉にふれる、おわりなきラリー
ぐるぐる巻きで床に円形のかたまりとなったり、壁に重なって空間をかたどるフレームとなったガムテープの集積体。取り付けられたものと壁のすきまを埋めようとするうちに層化してかたまりとなったパテ・・。槙原の初期作品は、ガムテープ、パテなどのメデュウムをつかって、そのメデュウム自体を作品に可変させようとする試みを示すようだった。一見、おくれてきた「もの派」のようにもみえたそれらの作品だが、ぐるぐる巻きのテープは、1個のから付きピーナッツを中心にひたすら巻きつけられ批評的なユーモアをたずさえながら、テープやパテの用法は変えずにそれを増幅するといったバイアスをかけることで、ものの属性や慣習法のまわりにある帰属全体をゆさぶろうとする企てが見られた。
その段階では、まだ素材や行為性のほうに拠りすぎているようにも見えたが、つぎに眼にした指紋や印鑑をパテ埋めして転写した作品や、中国の兵馬俑、ローマのコロシアムなどで購入したレプリカを現状の劣化にあわせて損ないつつ手直しした作品を集めた個展〈re-pair〉(2003)は、素材ーメデュウムー形態といった枠をでて、レディメイドや日常・社会的な事象に対象を広げながら、同じコンセプトを持続し深めていこうとするプロセスが評価できた。造形の自己複製化や情報編集のバリエーションにおちいりがちな若い作家が多いなかで、そのスタンスとねばり強そうな耐久力が気にかかった。
このような経過をへた槙原が、〈re-pair〉のコンセプトのもとに作りだしたのは、古道具屋で手に入れた鳥かごをできるだけ同じように複製して、元の鳥かごと複製したかごの底をつなげた作品(2004)、修復中の世界遺産や名所旧跡をその絵はがきと同じ構図で撮影し、もとの絵はがきとセットにした作品、そして一軒の廃屋が取り壊される様子を撮影し、その一部始終をはじめと終わりの双方向から同時に再生してみせる映像作品(2004)などだった。
ある物が消耗したり壊れたりすることで、本来とはべつな物になるー。「ペア」ということばには、「一対の、一組の」と同時に「等しい」という意味があるように、「re-pair(修復)」とは、そのようにして本来の形姿をそこなったり変化させたものを元の状態になおすことをいうが、修復されたものは、もはや元と同じものではありえない。完全なコピーでもなく、まったくべつなものでもない・・。そこにクローンや遺伝子操作といった人間の欲動と技術が生みだした世界で、ゆらぎ変動する自己と他者の境界の問題が映し出されているのは言うまでもない。捨てられた鳥かご、名所の絵はがき、廃屋の解体・・ちがった物象をそれぞれに有効な方法でフィードバックし、世界の根底にひろがる不穏の正体にふれる媒体へとトランスしえた先の3作品には、注視すべきひとりの作家の誕生を知らされた。
〈Free Size〉とタイトルした個展(2006)では、体育館でそれぞれちがった日にプレーヤーがバドミントンの羽根を打ちつづける様子を撮影して、それを対置したふたつのモニターで再生することでゲームが行われたように見せかけたり、建築現場で足場を組む金属パイプをプラモデル・スケールのキットにする一方で、べつの機会には実際のパイプ材を建築の内部でキットのように組んでみせる。パズルの通路のように仮設されたパイプの各所には、干した肉片が吊されていて、それを避けた者は罠のネズミと同様に決まった通路へ自分を誘導することになる。また旧日銀広島支店の金庫内で行った展示(2007)では、素焼きの釜で焼いた巨大なパンを設置した・・。過剰なまでの行為の反復と純化によって、日常性をトランスさせるのは、ハード・コアなコンセプチュアル系の作家一般にみられる方法論でもある。それは人間にとって多くの事象が観念によって仮構されたものであることを暴いていく。
槙原の作品は、日常の物ごとや行為、そのイメージのなかにあってわたしたちをとらえている観念や、スケール、距離、時間といった感覚との関係に生じる身体・心理的なゆらぎをそれらとの粘りづよいラリーを通して、センシティヴに焙り出そうとする。この「美しい国」では、いまだ現代美術のスタイルぐらいにしか思われていない、コンセプチュアル・アートの源流とそのサスペンスの戦列につながりえる骨格と可能性をもった新世代の作家である。
鷹見明彦(美術評論家)
αmプロジェクト2007 キュレーター
“αm project ON THE TRAIL vol.1 槙原泰介”
Published by Musashino Art University, July 2007